前身は松原料理飲食業同栄会
—京都で2番目の同業団体として発足—
大正4年(1915)の大正天皇御大典にあたって、盛儀中に事故のないよう食品衛生に努めることや業界の繁栄を計るため開くことになった会合を基盤に大正7年(1918)、東山区清水4丁目月輪町にて「松原料理飲食業同栄会」が結成されることになった。
京都市の歓楽地帯であった松原警察署管内の料理飲食業者は伝統的に団結心に富み、何か事があれば一致団結していた。しかし個々の友誼団体はあったが、同業者全体を包括する団体は結成されていなかった。そこで松原警察署の北田
輝署長が管内の飲食業者に働きかけ、大正10年(1921)1月に松原料理飲食業同栄会を改名して、「松原料理飲食同業会」が結成されることとなった。
初代の会長には「いもぼう平野家」の北村粂蔵が就任することになり、当初の会員は200名であった。しかしながら大正10年11月、就任したばかりの北村会長が急逝。急遽「菊水」の奥村小次郎が2代目会長に就任し、その後を引き継ぐことになった。
初代会長
北村粂蔵(いもぼう平野家)
T.10(1921)1月~11月
2代目会長
奥村小次郎(菊水)
T.10(1921)12月~S.2(1927)3月
—料理飲食同業会が強制組合になる—
昭和2年(1927)3月、奥村会長の任期満了につき、3代目の会長には「いもぼう平野家」の北村藤之助が就任した。
大正12年(1923)に結成された京都市料理飲食同業会の連合団体は、松原料理飲食同業会をはじめ8つの同業会により構成されていたが、会の結束を強め分裂を防ぐため京都府知事に強制組合設立の嘆願書を提出し、強制組合になることを目指していた。一方、昭和3年(1928)に京都が昭和天皇の御大典が行われる事が決定し、当局としては飲食業などの接客業者の衛生の取り締まり対策に憂慮していたところだった。
結果、昭和3年(1928)7月4日に松原料理飲食同業会を解散し、強制組合として「松原料理飲食業組合」を組織。組合長には北村藤之助が就任した。同年11月31日付の新府令による強制組合に改組され「区域内の営業者はその組合に加入せずして営業をなすことを得ず」と組合加入を義務付けた強制力のある組合が日本で初めて誕生した。
その後、昭和4年(1929)9月に「一休庵」の小山瀧之助が4代目の組合長に就任した。なお、組合の内訳は日本料理191店、洋食・カフェ78店、麺類117店、仕出し・すし90店、合計476店であった。そして、昭和5年(1930)1月には議会政治をまねた代議員制度が発足した。
3代目会長(組合長)
北村藤之助(いもぼう平野家)
S.2(1927)4月~S.4(1929)9月
4代目組合長
小山瀧之助(一休庵)
S.4(1929)9月~S.18(1929)9月~S.18(1943)5月
戦争への道を突き進み、各店は休業状態に
—米飯の販売制限が実施される—
昭和14年(1939)になると料理飲食業界にも戦争の影が忍び寄ってきた。近畿府県知事は「本格的な節米を実施する」という声明を出して節米要綱を決定した。昭和15年(1940)に入ると米飯の販売制限が行われるようになると共に、贅沢な料理の追放のため最高販売価格を決定した。これを業界では施行日にちなみ「舌の七・七禁令」と称した。
昭和16年(1941)12月8日のハワイ真珠湾攻撃によって日本は大東亜戦争に突入し、京都の料理飲食業界も最悪の状況に入った。昭和17年(1942)6月には高級料理店は自粛休業するようにと軍隊と警察からの命令を受け、対象となった6店舗が休業の止むなきに至った。そして12月には営業規模の大きな店から順に100店舗が休業を命ぜられた。
—松原料理飲食業組合の事務所を毘沙門町に移転—
その頃の事務所は東山通松原を東に入った清水4丁目月輪町にあったが、すき焼きの店、千也の松永氏のご好意により、昭和18年(1943)2月に組合事務所を東大路松原上ル毘沙門町(元、千也北店)に移転した。そして5月には「いもぼう平野家」の北村藤之助が再度、5代目組合長に就任することになった。
戦況は日を追って厳しくなり、一部を残して全ての飲食店が休業に至った。昭和19年(1944)になると、空襲は日本全土でますます激しくなり、国民は食うや食わずの日々を送っていた。しかし、こうした苦しい戦争も昭和20年(1945)8月に広島と長崎に投下された原子爆弾によって、大きな悲劇を残して終結を迎えることになった。
戦争が終わり、復興の道へ歩み出す
—飲食店は晴れて営業ができるように—
当時は配給があったとはいえ、その量はあまりにも少なく、飲食店は闇物資に頼る苦しい営業状態が続いた。この頃の組合運営は大変厳しく、毎月何回も役員会を開催していた。戦後の業界立て直しのために様々な協議が行われ、当時の役員には並々ならぬ苦労があった。
昭和21年(1946)4月、「中村楼」の辻 重彦が6代目組合長に就任。昭和22年(1947)4月には「いもぼう平野家」の北村藤之助が7代目として三たび組合長に就任した。昭和23年(1948)4月、北村組合長の任期満了により、中華料理「ハマムラ」の浜村保三が8代目組合長に選任された。
5代目組合長
北村藤之助(いもぼう平野家)
S.18(1943)6月~S.21(1946)3月
7代目組合長
北村藤之助(いもぼう平野家)
S.22(1947)4月~S.23(1948)3月
6代目組合長
辻 重彦(中村楼)
S.21(1946)4月~S.22(1947)3月
8代目組合長
浜村保三(ハマムラ)
S.23(1948)4月~S.24(1949)3月
東山料理飲食業組合が誕生
—「東山料理飲食業組合」に名称変更—
昭和24年(1949)4月、「南風楼」の今西寛次が9代目組合長に就任。また、松原料理飲食業組合を「東山料理飲食業組合」に名称を変更した。そして、昭和26年(1951)納税貯蓄組合を、昭和27年(1952)には青色申告会を設立。
昭和33年(1958)4月、今西組合長の任期満了につき、10代目の組合長に「千也」の岡
政一が就任。そして組合長を理事長に名称変更した。昭和37年(1962)12月、東山料理飲食業組合の事務所は元千也北店から東大路松原西入ル新シ町に移転した。移転に当たって組合会計からの支出は一切なかった。立退料で土地家屋を買い、一部改築したもので、「東山料飲株式会社」が管理して現在に至っている。
昭和40年(1965)10月10日、「東山料理飲食業組合」は創立50周年を迎え、京都中央信用金庫本店5階で記念式典が開催された。
9代目組合長
今西寛次(南風楼)
S.24(1949)4月~S.33(1958)3月
10代目理事長
岡 政一(千也)
S.33(1958)4月~S.42(1967)12月
昭和42年(1967)12月、岡理事長の逝去に伴い、「新三浦」の髙橋宗吉が11代目理事長に就任した。昭和54年(1979)6月26日、創立60周年記念総会が京都ホテルで行われた。昭和55年(1980)4月、髙橋理事長の任期満了により、12代目理事長に「志満屋」の田原義一が就任。この年より定期総会を毎年、都ホテルで行われることとなった。昭和59年(1984)4月、田原理事長の任期満了に伴い、13代目理事長に「美濃幸」の吉田一男が就任した。
昭和63年(1988)6月16日、創立70周年記念総会を都ホテルにて挙行し、「組合員名簿」「組合のあゆみ」を発行。平成10年(1998)6月18日、創立80周年記念総会を都ホテルで開催し、「創立80周年記念誌」を発行した。平成14年(2002)3月には京都共済協同組合との話がまとまり、火災共済相談所を事務所内に設置。
11代目理事長
髙橋宗吉(新三浦)
S.42(1967)12月~S55(1980)3月
12代目理事長
田原義一(志満屋)
S.55(1980)4月~S.59(1984)3月
13代目理事長
吉田一男(美濃幸)
S.59(1984)4月~H.16(2004)3月
平成16年(2004)4月、任期満了の吉田理事長に代わり、「新三浦」の髙橋昌美が14代目理事長に就任した。平成20年(2008)6月18日、創立90周年を迎えウェスティン都ホテルにて記念式典が開催された。また「創立90周年記念誌」を発行。平成23年(2011)4月、「はり清」の森本隆三が15代目理事長に就任。
平成25年(2013)には「和食:日本人の伝統的な食文化」がユネスコ無形文化遺産に登録された。和食が無形文化遺産として永遠に残ることは、とても喜ばしいことであり、和食離れが進む若者が和食文化を見直す機会になれば素晴らしいことである。
平成26年(2014)4月、森本理事長の任期満了につき、「いもぼう平野家本家」の北村眞純が16代目理事長に就任した。同年10月から11月にかけて組合事務所の大巾な改修工事を営繕積立金より約800万円を支出して実施した。平成27年(2015)
10月のマイナンバー制度導入に伴い、個人情報保護の観点からセキュリティー強化のため警備会社セコムのシステムを導入した。なお、個人情報保護法が平成29年(2017)5月に全面施行となり、8月には組合独自の「個人情報保護に関する遵守事項」を採択した。
平成30年(2018)、東山料理飲食業組合は創立100周年を迎えた。同年4月1日現在の組合員数は303名。6月14日ウェスティン都ホテルにおいて創立100周年記念式典、祝賀会ならびに定期総会を開催。創立100周年を記念して「東山料理飲食業組合創立100周年記念誌」を発刊するとともに組合旗を制作した。
14代目理事長
髙橋昌美(新三浦)
H.16(2004)4月~H23(2011)3月
15代目理事長
森本隆三(はり清)
H.23(2011)4月~H.26(2014)3月
16代目理事長
北村眞純(いもぼう平野家本家)
H.26(2014)4月~令和4年3月
ならびに平成30年度定期総会を開催。 「創立100周年記念誌」の発行とともに組合旗を新たに製作した。
令和2年1月、中国の武漢市で発生した新型コロナ感染症は、 同16日に国 内で初の感染者が確認されて以降、瞬く間に全国的かつ急速にまん延し3 月には新型コロナウイルス対策の特別措置法が成立。4月7日には東京都など7都府県に緊急事態宣言が発出、同16日には京都府においても対象とな るなど、その後、
約2年半の間に約2500万人の国民が感染。その間に4度にも及ぶ緊急事態宣言が発出され、ワクチン接種やマスク着用、アルコール消毒等の感染拡大防止対策とともに時短営業や休業の措置、外国人の入国制限などの対策が相次いで打ち出された。
特に毎年5千万人以上の観光客が訪問していた京都市においては、令和2 年以降、観光客が激減、多くの飲食店が大きな影響を受けた。
同組合では、定期総会などを中止する一方で、組合費を6カ月分減免し、組合員の負担軽減に努めた。コロナの関連情報をネット上でいち早く情報 提供するため京都市のIT利活用支援補助金を活用し、組合独自のホームページを開設、随時、発信されるコロナ対策をいち早く情報提供。また組 合員情報をシステム化し、事務効率の向上に努めた。組合事務所の老朽化
が著しく、令和2年10月以降、2年以上にも及ぶ協議を経て、 組合のシンボルとして相応しい京町家風の事務所への建替を計画立案、令和4年9月の代 議員会において承認。令和5年5月に着工、同年11月完成予定。令和3年8月 東山区内の大学での職域接種などに組合関係者がワクチン接種できるよう働きかけ、約270名の組合関係者が接種。令和3年、国の事業復活支援金制
度に際し、同組合の青色申告会を登録確認機関に登録申請、約80人の組合員の事前確認を行った。
令和4年、北村理事長に代わり、佐々木邦泰氏が理事長に就任(〜R4 2022.03)。組合費を金融機関からの自動引き落としとし、班長の負担軽減に努めた。
令和5年10月1日に消費税のインボイス制度が運用されることに先立ち、公益社団法人東山納税協会・東山納税貯蓄組合連合会とともに連携し、「消費税インボイス登録推進の店」の宣言式を開催。令和4年秋の叙勲において辻雅光氏が長年の中小企業振興への功労により旭日単光章を受章している。
東山料理飲食業組合
〒605-0856
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